ライオン使いの淑女
壱千八百五拾九年の初冬、動物の見世物で有名なハルスベルク一座がはじめてブカレストへやってきた。 誰も見たことがないほどの夥(おびただ)しい数の珍しい動物、颯爽としたライオンの一家、わけてもその猛々しいライオンにやすやすと芸をさせる女調教師などの話題で街中が持切りだった。
   そのライオン使いは、イルマ・ダールストレムという名のスウェーデン人だった。彼女は美貌で、有能で、勇敢で、そして男を近寄らせない女だった。もっとも座長の愛人であるという噂があった。しかし下心を抱いて近づこうとする大金持ちの特権貴族たちは体よく肘鉄を食らわされ、彼女のプライドの高さに二度と言い寄る気力をなくしてしまうのだった。
   彼女はハルスベルク家のひとたちと一緒に市内の一流ホテルに宿泊していて、一家の馬車に貴婦人然と乗り込んで見世物小屋へ出かけそして帰ってくる。他人の訪問は受け付けず、ひとりで通りに出たりどこかへ出掛けるというようなことは一切なかった。こうした過度な慎み深さと修道女のような厳格な態度に好者(すきもの)の紳士たちは地団太を踏み、一般のひとたちの好奇心はいや増しに掻き立てられた。かくしてそのスウェーデン女はたちまちカタリーニやローラ・モンテッツにも並ぶブカレストの人気者になってしまったのである。
   ある夜、ブカレスト中の貴婦人たちの憧れの的であり、パリでちょっとした浮名を流して帰国したばかりのプリンス・マニアスキュが動物小屋を覗きにやってきた。彼は数人の友人を従えて動物たちを見てまわった。餌を与えられている様子を面白がりながら小屋のなかを進むうち、ようようライオンの檻の前にきた。そして、どうせ大した女ではあるまいとたかを括ったような笑みを口元に浮かべて、噂のスウェーデン女が姿を見せるのを待った。檻の後ろの小さい扉が突然開き、盛大な拍手喝采に迎えられてイルマが登場した。 誰にも真似のできないような威のある仕草で、着ていたビロードのような光沢の大きい毛皮のコートを脱ぎ去った。その下はイタチの毛皮の縁を取った白いサテンと赤いベルベットの装束だった。ワイヤー製の鞭を手にし、ほっそりした体をまっすぐのばし、にこやかな笑みを浮かべてすばやく檻のなかへ歩み入った。 鬱金色にかがやく豊かな髪の毛と白い肌が、ふたつとない高貴な顔立ちに精妙な魅力を添えていた。プリンスは彼女を一目見た瞬間魅入られてしまった。彼女の一挙手一投足、彼女の演技のひとつひとつに彼の興奮はつのった。彼女がライオンの恐ろしい口のなかへかぐわしい顔を突き入れたとき、プリンスの心臓は早鐘を打った。彼女が気難しい猛獣たちに怒号を浴びせたり足でけったり鞭を食らわせたりしておとなしくさせるたびに、プリンスは安堵の甘美なシャワーが全身を伝って滴り流れる思いがするのだった。
   彼女が檻を出るか出ないうちにプリンス・マニアスキュはその行く手に立ちはだかった。目交(まなかい)に立ったプリンスの前で彼女は、ハルスベルク家の比類なき男前の息子であるエドガーが差し出した外套にゆっくりと袖を通したが、プリンスの端正な、女性的なまでに清らかな目鼻立ちを見る彼女の青い大きな目には含羞の影が宿っていた。そして彼の問いかけに、いつもの高慢で冷淡な口調は影をひそめ、ためらいがちに、しかもいおうようない愛想のいい笑みさえ浮かべて答えたのであった。
   プリンスは夜毎通ってくるようになった。彼を迎えるイルマにもいとしげな様子があり、また舞台へ出るとまず客席に彼の姿を探すのだった。そして演技の合間合間にも、まだいてくれているのか心配で客席に目を這わすのであった。舞台を下りてすぐそこに彼が待ってくれていて毛皮を着るのを手伝ってくれるときはいいが、彼がいないと苛々と床を踏み鳴らして待つのだった。しかし彼がさせてもらえるのは毛皮を着せてあげるだけだった。執拗に言い寄っては撥ね付けられるに連れ、ますます彼は好奇心を煽られ、何としても物にしたいという魔的な衝動に憑り付かれていった。
   あるひとりの恋敵(こいがたき)が思いがけず彼に手を貸してくれることになった。ある夜、イルマがライオンの檻へ入ろうとしたとき、エドガーが声を震わせながらこう言ったのである。
「今までずっとあなたは僕の親父の愛人だと考えていた。だから距離を置いていたんだ。でももう言わなくてはならない。僕はあなたを愛している。だから傍観者を決め込んで手を拱(こまね)いているわけにはいかない。あなたがいい顔を見せているあの貴族は、あるプリンセスとすでに婚約していて、あなたの心をもてあそんでいるだけなんだ」
   出し物が終わったあと会いにきたプリンスに彼女は単刀直入に訊いた。
「婚約者がいらっしゃるって本当ですの?」
「ええ、その通りです。でもあんな退屈な恋愛ごっこなんか、お望みなら今すぐにもご破算にしますよ。そして貴女の奴隷としてその御み足のもとに跪いて見せましょう」
「あらまあ、もうわたしのことなんか何とも思っていないくせに」
「そうではないことをどうやって証明すればよろしいのでしょう?」
   彼女はプリンスを真正面から見詰めた。そして低い声で突然の大胆な決意を告げた。
「夜の十一時に動物小屋への入り口になっている檻の後ろの小さい扉の前へ来てください」
「必ずうかがいます」
   言葉通り彼はやってきた。漆黒の夜に包まれた動物小屋を突っ切って出たところで、彼はやわらかい二の腕(かいな)に慈しむように抱き竦められ、熱い唇にむしゃぶりつかれた。

   瞬く間にマニアスキュとライオン使いの女との情事が界隈の噂になった。息子の将来を案じた大殿は、幼少の頃からの許婚(いいなずけ)であるプリンセス・アグラフィーヌとの華燭の典を一日も早くあげてしまおうと考えた。父と息子との間に激しい言い争いがあった。しかし到頭プリンスとプリンセスは情を交わし、見世物小屋に彼が姿を見せない夜がやってきた。
   その次の夜、イルマは悶え苦しんだ。さらに二晩過ぎた。待ち人は現れなかった。そこで彼女は手紙を届けさせた。しかし返事はなかった。
   四日目の夜、ライオンの檻を離れた彼女にエドガーがやさしく毛皮を着せてあげながら言った。
「イルマ、どうしてあの悪党が姿を見せないのか、その訳を言おうか?」
「どうしてだって言うの?何を聞かされても驚きはしないわ」と他人事のように言った。
「彼は三日後に結婚式をあげるんだ」
「嘘おっしゃい!」
「僕が嘘をついて何の得がある?」
「花嫁の名前は?」
「プリンセス・アグラフィーヌ・スロブーダ」
「かわいいの?」
「かわいくて、若くて、大金持ち」
   甲走った毒々しい笑い声がイルマの口から迸った。
「もし僕の命をあなたに捧げたら、一滴の涙をこっそり流してやろうとひと言いってください。そうすればあなたの復讐は成就されます。僕はあの男を殺します....」
「だめよ、エドガー、あなたが命を捨てることはないわ、命を捨てるのは.....」
「あんな下司野郎を懲らしめなくていいとでも?」
「とんでもないわ」と彼女は決意を秘めて答えた。
「じゃあ僕にあいつを殺させてください」とエドガーはささやいた。血の気の失せた唇がふるえていた。
「だめよ。彼のことはわたしにまかせなさい」
   気性の激しい蛇の群れが身をくねらせて踊っているように見える鬱金色の編み上げ髪に縁取られた魔的な彼女の顔を覗き込んだエドガーの顔が灰色に曇った。彼は何も言わなかった。
   次の日の午後、プリンス・マニアスキュは間もなく彼の妻となるプリンセスの艶やかなこじんまりした部屋の椅子に腰をおろし、丹念にマニキュアを施した指で彼女に煙草を巻いてあげていたとき、その彼女が権高な意地悪い笑みを浮かべて、もてはやされているライオン使いの女に一度だけ会いたい、と言い出した。
「アガフィーヌ、一体何だって君はそんなことを?」
   そう言ったプリンスの手に握られた煙草の巻紙はふるえ、色白の指の間から黄金色の刻み煙草が零れ落ちた。
「だって、あまりにもそのひとのことをみんなが誉めそやすんですもの」とプリンセスは悪戯(いたずら)っぽく言葉を続けた。「だから、どうしても一度そのひとの見世物を拝見しなくてはと思ったの。それも今日がいい。あなたも一緒にこなくてはいけないわ」
   その夜、ライオンの檻に入った件のスウェーデン女の目に映ったのは、マニアスキュとその隣で挑発するようにオペラグラス越しに彼女を観察している若い優雅な女の姿だった。これがあのひとの妻となるプリンセスにちがいない、と直ちに思った彼女の体に震えが走った。しかしそれは一瞬のことだった。彼女は普段通り、猛獣相手に落ち着き払った果敢な演技を続けた。看板の出し物を終えると彼女は一番大きいライオンの背中に長々と身を横たえた。ほかのライオンたちは彼女のまわりに車座になった。するとプリンセスが大きな拍手をして金貨の詰まった財布を檻のなかへ投げ入れた。期せずして観客席がざわめいた。イルマの体がぶるぶると震えだし、涙が目からあふれ出た。彼女は自制心を失い、まわりのライオンたちに睨(にら)みをきかすことも忘れてしまった。 一番巨(おお)きいライオンが頭をもたげて怪訝そうに彼女を見た。そして恐ろしい歯で彼女の左手に噛み付いた。悲鳴が満場にどよめいた。しかしイルマはその瞬間自分を取り戻した。キッと睨みつけるとひと言命令した。するとライオンは直ちに彼女の腕を放した。彼女はすっくと立ち上がるや不埒なライオンの鬣(たてがみ)を引っつかみ、背中に片足を乗せ、ワイヤー製の鞭で打ちのめした。怖気づいたライオンは従順(おとな)しく彼女の足元に這い蹲(つくば)った。客席から拍手喝采が囂然(ごうぜん)と沸き起こった。
「あのひとの挙式はいつ?」 ライオンの檻を離れるやエドガーに訊ねた。
「あさってだよ」
「手紙を書くから、間違いなく届くようにしてちょうだい。あなた、自分でそれを確認してくるわね?」
「いつでも言い付けてください」
「恩に着るわ」
   次の朝、ライオン使いの女はプリンス宛に手紙をしたためた。もう一度だけ会って話がしたい、夜、いつもの時刻に動物小屋のところに来て欲しい、来てくれたら挙式の日にわたしはブカレストを後にして二度と戻ってこない、という内容だった。 エドガーはその手紙を自らプリンスに手渡した。プリンスはすばやく目を通すとにっこりと微笑んで言った。
「うかがいます」
   プリンスは夜の十一時に動物小屋の後ろの扉の前にやってきた。扉はいつものように簡単に開いた。短い毛皮のジャケットに身を包んだイルマが雪の薄明かりのなかに立っていた。前へ進み出て彼の手を取り、暗い足元を探るようにしてゆっくり引いていった。いつものように二つ目の扉が軋り音を立てて開き、ライオン使いの女に導かれるままプリンスは真っ暗い部屋のなかへ入っていった。するといきなり彼女は媚びるように彼の首に両腕を巻き付けるとしゃにむに狂おしい接吻をした。
   そして忽然と彼女は姿を消した。扉がバタンと閉まり、その刹那、プリンスの足に何やら生き物が、何やら蠢(うごめ)くものが触った。何だこれは?ここはいつもの彼女の楽屋じゃないのか?
   次の瞬間、赤い灯りがどぎつくあたりを照らし出した。イルマが勢いよく焔をあげるカンテラをライオンの檻の前の鉄製の環に吊るしたのだった。 そのライオンの檻のど真ん中にプリンスは立っていた。彼は恐怖のあまりその場に立ち竦んだ。イルマは腕組みをして鉄の檻の前に立ち、青い冷淡な目で彼を睨み付けると悪魔的な笑い声を短く放った。プリンスは扉を開けようと躍起になったが徒労だった。
「イルマ、お願いだ!」プリンスは必死に訴えた。「いったいどうしたというんだ?」
「今日はわたしとあなたの結婚式ですのよ。ライオンたちがその招待客ですわ」
「気でも狂ったのか?」
「自分のしていることぐらいようくわかっていますわ。あなたはわたしを裏切ってくれたわ。ですからわたしはあなたを死刑に処するのです。さあ、みんな、前へ出て、前へ出て!」
   彼女は鞭を唸らせて、眠そうにしているライオンたちを煽り立てた。プリンスは助けを求めて大声を上げた。しかしその叫び声は冬の嵐にかき消されてひとの耳に届くことはなかった。イルマの魔法にかかり彼女の大音声に駆り立てられたライオンたちがいっせいに彼に飛び掛った。たちまち血が噴き出した。彼が助けを求めながら懸命にライオンから身を守ろうとあがいているそばで、彼女は檻の鉄棒に顔を押し付けて、恐怖に戦く末期の彼を、見るも恐ろしい苦悶の表情を、さも楽しそうに見物していた。
   身の毛のよだつ仕事をライオンたちがやり遂げたのはかなりの時間が経ってからだった。引きちぎられた肉片が檻の床一面に飛び散っている央(なか)にプリンスが息絶えて倒れこむと、ライオンたちはのっそりと脇の方へ行って血まみれの前足をぺろぺろと舐めはじめた。

   その夜、かぐわしいライオン使いの女はブカレストから姿をくらました。その後、彼女の噂を聞いたものは誰一人としていない。


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