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ヴァルヴァラ・パガディン
ロシア流生き方の物語
平和と静けさに恵まれた孤独な心のうちにこそ偉大な思想が最もよく熟成するように、一点の曇りもないとてつもない情念は、都会の激湍(げきたん)のような生活の場よりも、簡素な環境のなかでこそ健やかに育まれるもののようである。ヴァルヴァラ・パガディンが学生のシーメン・プルトフスキーと知り合い、ふたりの魂が未来永劫ひとつに融和したのが、街道から遠く隔たったウクライナの寒村であったことも、なるほどと思われる。ヴァルヴァラは小作人の娘であった。キエフに出て薬学を勉強していて時々両親のいる故郷へ帰ってきていた女友達に感化されて、自由への憧れを植え付けられたヴァルヴァラは、専制政治やツァーリズムに対して憎しみを抱くようになり、寝食を惜しまない労働と勉学を通して男と対等の地位に付きたいという熱い思いに胸を焦がすようになっていった。彼女は精を張って勉学にいそしんだ。たちまちその努力の成果が現れてきた。彼女はニヒリストを自称し、急進的で大規模な政治組織の一員になった。
それは、ロシアの既存の組織を根こそぎ破壊し尽くすことを目標にかかげ、そのために人々を啓発し、一般教養を広め、彼らを国家や教会の独裁に盲目的に従う有象無象の奴隷たらしめている偏見や迷信を根絶する地道な活動を行っている組織だった。
しかし彼女の強い母性本能は、彼女一流の利他的なやり方で今すぐこの世を作り変えることを要請していた。かわいらしいこの少女に、解(ほど)くと黄金のマントのように翻(ひるが)っていた豊かな髪の毛を切らせたものは、決して女性特有のうぬぼれなぞではなかった。髪を短く刈り込んでしまうと、凛とした禁欲主義の雰囲気が漂い、男心をそそる愛の女神という風情は影をひそめて、若き神学者のような風貌がそなわった。今や出歩くときはいつも長靴(ハイブーツ)を履き、飾り気の全くないフロックに、質素なジャケット、頭には男物の丸い帽子という出で立ちだった。それはまさしく女らしい色っぽい飾り物を唾棄し去った現代の女丈夫(アマゾネス)の生き見本だった。 住んでいた村のみならず、周囲数マイルの一帯には、一般開業医はひとりもいなかった。そこで、すでに勉強が進んで十分な医学知識を身につけていた彼女は医者として、そして「慈悲の聖母」として働き始めた。しかしこれだけでは満足できなかった彼女は、父親の家のなかに土地の子供だけではなく大人たちをも集めて授業を行い、読み書きや算数のほか宇宙や、自然法則や、地球や、そこに住む動物や、人類の未来などに関する基本的な概念を教えた。そのかたわら、彼女は色々な定期刊行物に寄稿したり、土地の開墾と家畜の飼育に関する実用的な知識を農民に授けたりもしていた。馬の背の鞍に男のように跨って周辺を歩き回っていたが、間もなく彼女の話が聞かれない地区はいなくなった。 彼女が、キエフで化学を学んでいたシーメン・プルトフスキーと出会ったのは、そんな精力的な日々を送っていたときだった。彼は復活祭の休暇で、収税官である父親の住む実家に帰って来ていたのだった。 ふたりは的(まと)をピストルで射抜く訓練や、レピアー(細剣)を使ったフェンシングの稽古を一緒にしはじめ、やがて心から愛し合う仲になっていった。目的へ向かって努力を惜しまないふたりの禁欲主義的傾向は、善と崇高なものへのあこがれをふたりの心のなかに燃え上がらせていたが、両人とも小ロシア人特有の何か野趣を感じさせる自然児でもあったのである。 したがってふたりの恋は、快楽を求める低意も、計算された利己主義の翳(かげ)りもなく、いわんや心浮き立つ月夜の甘いそぞろ歩きなんぞとは無縁のものであった。それは浮薄な遊びの要素の全くない、無骨なまでに気質的な恋だったのである。 シーメンは学業を続けるためにキエフへ帰った。しかし再び休暇で実家に帰ってくると、彼と果敢で精力的な少女との絆は、日ごとに強くなり揺るぎのないものになっていった。国家転覆を企てるロシアの政治組織に加わっていたシーメン・プルトフスキーも又、色々なレベルでの活動に積極的に参加し出していて、危険な企てにも頻繁に関わっていた。 秋からの新学期を向かえるためにキエフへ帰る途中、彼は大衆デモに参加し、多くの学生たちとともに逮捕されてしまった。 ヴァルヴァラ・パガディンはこの事実を新聞で知った。彼女は眉ひとつ動かすことなくその衝撃の記事を二回読み返した。その新聞紙を折り畳んでそばに置いたとき、彼女の心は既に決まっていた。 小さいスーツケースに身の回りの品を詰め込むと、二頭の痩せた馬のつながれていた父親のブリツカ(幌馬車)に乗り込み、最寄の鉄道の駅へゆき、翌日には彼女はキエフにいた。 なにを当てにしていたのか、何をするつもりだったのか、彼女自身わかっていなかった。とにかくキエフにいなくてはいけないという思いだけだった。得体の知れない運命的な衝動にかられていたのである。 彼女はとある将校の寡婦の家に部屋を借りて旅装を解いた。そのあと一等先に彼女がしたことは職探しだった。わずか数日のうちに、手袋や首巻などを売っている、小さいながらも洒落た店で、早々と仕事を見つけてしまった。ヴァルヴァラに今少し世間知があれば、どことはなしにその店には胡散臭いところのあることに気付いていたにちがいない。奥には贅を尽くした華美な隠し部屋があり、店のオーナーであるマルファ・イヴァノヴナは冷たい衣擦れの音を立てるシルクに身を包んで麝香の匂いを漂わせていたし、きれいな売り子たちはローネックのドレスを着飾り、御洒落(おしゃれ)な紳士たちがそんな彼女たちと媚びるような謎めいた目を見交わしているような店だったのである。 ヴァルヴァラはしかし素朴な田舎の女だったから、そうした様子にも何ら悪の影を見抜くことができなかった。客の問いかけに丁寧な口調で手短に答え、ハンカチや、ネクタイや、スカーフなどを虚心に差し出していた。 夜になると彼女は、鉄格子のはまったどこかの窓の奥に見えるかもしれない恋人の姿を求めて、警察の建物の外をうろついた。 とある夜、ちょっと用があるから残っていてくれといわれたヴァルヴァラが、マルファ・イヴァノヴナと二人きりで店にいると、趣の添うた背の高い男が入ってきた。高価な毛皮のコートを身にまとったその男は、入ってくるなり、きらびやかなグレイの目で凝(じ)っとヴァルヴァラを見詰めた。 「こんな夜遅く何を差し上げましょうか?セラフ・パブロヴィッチさま」とマルファ・イヴァノヴナが大袈裟にへりくだった挨拶をした。 「手袋だよ」とその時間外の客は鷹揚な口調で答えた。ヴァルヴァラが男の前に手袋の入った箱を置くそばで、マルファ・イヴァノヴナが声をひそめて男とふたことみこと言葉を交わした。 「お嬢さんは田舎から出てきたんですって?」と見知らぬ男が話しだした。 「そうでございます」 「この街の住み心地はどう?」 「こちらで働かせていただいていますから、満足しています」 「もっといい生活をさせてあげよう」と男は言葉を続けた。「それにしても、すてきな髪の毛を刈ってしまうなんて、野蛮なことをした罰当たりなやつは誰です?」 「自分で切りました」 「その格好ではニヒリストに間違われかねない」男は笑みを浮かべて話し続けた。「もっとも、ニヒリストならあなたのように美しいはずがありませんがね」 ヴァルヴァラの顔が真っ赤になった。とこうするうちに見知らぬ男は一対の手袋を選び終えていた。男が言った。 「あなたと出会えてよかった、ミス・・・ ええっと、お名前は?」 「ヴァルヴァラ・パガディンです」 「ミス・ヴァルヴァラ、ぜひもう一度お会いしたいものです」 男は彼女に背(そびら)を向けながら丁寧にも軽く帽子を持ち上げた。マルファ・イヴァノヴナが男を送って入り口までゆくと、男は声をひそめて何かつぶやいた。 「何て運がいいんでしょう!」と、男の背後でドアを閉めると、マルファ・イヴァノヴナが歓声を放った。「あの方、あなたがお気に召したのよ。あなたはあの方を虜(とりこ)にしたのよ。みんなを震え上がらせる、他ならぬあの方を」 「どなたですの?」 「誰って、セラフ・パブロヴィッチ・ハリコフに決まってるでしょう?たった今ここにいらしてた方は、キエフの警察署長さんよ」 「もっと早くそうおっしゃってくだされば」とヴァルヴァラは大きな声を出した。そして瞬時に彼女は決心した。 「まあ、まあ、あわて過ぎてもいけないわ」 「しかもわたしに好意を抱いた、とおっしゃるんですね?」 「もうあなたにぞっこんよ、まちがいないわ。それにしてもあなた、そんな身なりじゃいけないわ。その髪もどうにかしないとね。何はさて、付け髪(エクステ)を買うことだわ。それじゃまるで刑務所から出てきたばかりみたいですもの。お金貸してあげてもいいわよ」 「いいえ、けっこうです。でも・・・」 「何なの?遠慮なくおっしゃい」 「あのう、その、あの方に、警察署長さんに伝えていただきたいのです。実は、わたしもあの方のことを好ましく思っているということを。おわかりでしょうか・・・わたくし、あの方に、ひとかたならず好意を感じています」 「そう伝えておくわ。わたしにまかせて」 さっそく次の日の夜、ハリコフがヴァルヴァラの部屋を訪ねてきた。彼女の服装は相変わらず質素なものだったが、頭にはすでに鬘(かつら)があしらわれていてひときわ美しく見えた。薄汚れた小さい部屋の佇(たたず)まいとたったひとつのみすぼらしいスーツケースを一瞥した警察署長は即座に彼女の暮らしぶりを総括した。 「田舎から出てきた若い女性にとって」と彼は口火を切った。「街での生活は誘惑が多い。恩寵を受けられるよう、微力ながらあなたの世話をして差し上げたい。先ず第一に、あなたは二度とマルファ・イヴァノヴナの店に出てはいけません。あの女には悪い噂がある」 「どんな噂ですか?」 「無垢な美しい女性を売買する破廉恥な商売に手を染めているのです」 ヴァルヴァラ・パガディンはその意味がよく呑み込めず、もの問といたげな眼差しで男を見つめた。 「それに、この部屋もすぐに出ないといけません」ハリコフは言葉を続けた。「あなたの幸せを願う私の気持ちが迷惑でなければの話です」 「わたしの気持ちはもう決まっています。ご好意に甘えさせてください」 「そういうお気持ちならなおのことです。となれば、これ以上生活上の些事をくどくど話す必要はありますまい。すべてを私にまかせてください」 「ぜひそうお願いします。感謝のしようもありません」 「私の方こそあなたに感謝しなくてはなりません」 翌日の午後のうちにハリコフが馬車でやってきて、ヴァルヴァラを、新たに彼女のために借りたマンションへ案内した。純パリ風の華美を凝らした住まいだった。年配の女中と、コックと、仕着せを着た下男が、彼女ひとりのために雇い入れられていた。大広間では、五本の指に入る有名ブティックのオーナーであるマダム・プトンと、キエフきっての宝石商であるアレックス・ティルモニッチのふたりが彼女を待っていた。ふたりは用意してきた品物を彼女の目の前にひろげた。ヴァルヴァラが見るからにどうしていいいかわからない様子だったので、ハリコフはマダム・プトンのアドバイスに耳を傾けながら、数々の外出用の衣装はもとより、刺激的なネグリジェも一枚選び出した上に、さらにいくつかの品をその場で矢継ぎ早に注文し、宝石商からも高価なイアリングを一対と、ブラスレットを二個と、絢爛たる金の十字架とを彼女に買い与えた。 その日の夜遅く、ヴァルヴァラ・パガディンの許に秘密の伝言が届いた。それにはこう記されてあった。「君は勇敢なだけではなくなかなかの権謀家だ。我々は君に全幅の信頼をよせている。君の飛び込んだところはシーメン・プルトフスキーを奪回するためのみならず、我々の運動を大きく前進させる観点からも二つとない敵の懐(ふところ)だ。追って指示があるまで待て。我々はあらゆる手段を尽くして君を援助する」 ヴァルヴァラはその書付を火中に投じた。そのわずか数分後、警察署長が訪ねてきた。 一週間が過ぎた。さらに次の一週間が過ぎた。新たな伝言が届いた。 「シーメン・プルトフスキーはあきらめろ。意趣を晴らすことは可能だが彼の救出は無理だ」 その二日後、ヴァルヴァラ・パガディンは、三日以内にキエフの警察署長セラフ・パヴロヴィッチ・ハリコフを暗殺せよとの「死刑執行令状」を受け取った。 彼女はその血なまぐさい書類をキャミソールのなかに隠し、姿見の前にゆき、髪を整えてから、着替えの手伝いをさせるために、鈴を振り鳴らして女中を呼んだ。 彼女と夕食を共にするためにマンションへやってきたハリコフの目に映ったのは、白狐(しろぎつね)の毛皮を縁取った白いシルクの化粧着をまとって長椅子に頽然と身を横たえた、女優のサラ・ベルバールと見粉(みまが)うようなヴァルヴァラの絵姿だった。 「何てすばらしいんだ!」そして彼女の手に接吻(くちづけ)して、 「どうして君の手はこんなに冷たいんだ?」 「こわいの」 「何が?」 「わからないけど、短剣でも持っていないと安心できないような気がするの」 「短剣?これの方がいいんじゃないか?」そう言うとハリコフはポケットから小型の拳銃を取り出して彼女に手渡した。 「とりあえずはこれでもいいかのしれない。でも短剣を用意してくれるでしょう?お願い」 「君がそう言うのなら」 夕食のあと、いつものようにハリコフは一眠りするために会食室のソファーに横になった。ヴァルヴァラは暖炉のそばの小さな肘掛け椅子に腰をおろした。しばらくハリコフの寝顔を凝然と見つけていた彼女が卒然と立ち上がり、毛足の長い絨毯の上を滑るような足取りで横切って彼のそばにゆき、拳銃を取り出して、男のこめかみに突きつけた。が、凶器を持つ腕を下ろした。「眠ているひとは殺せない」と彼女は心のなかでつぶやいた。「そんなの臆病者のすることだわ」 その夜のうちに、彼女は頼んであった短剣をハリコフから受け取り、ベルトに装着した。ふたりでお茶を飲んでいたとき、彼に気づかれないようにその短剣を抜いて、死の一撃を食らわそうとした。しかしこのときも行為に及ぶことができなかった。 「心を強くしなくてはいけない」と、翌朝、ふかぶかとした枕から頭をもたげた彼女は自分に言い聞かせた。「今日こそ決行しないと」 昼食をとりに来るはずの警察署長は待てど暮らせど姿を見せなかった。ようよう現れたときは夕方近くになっていたが、彼は上機嫌だった。 「ずいぶんとご機嫌がよろしいのね。どうなさいましたの?」 「今日は超一級の収穫があったんだ」と薄情な笑みを浮かべて答えた。「ニヒリストどもの印刷所にガサを入れたのさ」 ヴァルヴァラにとっては好機だった。 「もうずいぶんと大勢の囚人をかかえていらっしゃるんでしょうね」と、淡々とした口ぶりで彼女が言った。「牢屋は満員なんじゃありません?」 「すし詰め状態さ。そんなこと知ったことじゃない」 「シーメン・プルトフスキーはどうなりました?」 「あいつを知ってるのか?」 「田舎が同じですの」 「まだ生きてる。何度も何度も思い切り締め上げているんだが。ひとことも口を割らない。強情なやつだ。それこそ望むところなのだが」 「どういうことですの?よくわかりませんわ」 「おかげで思う存分鞭で叩きのめしてやることができるということさ」 ヴァルヴァラの顔面から血の気が失せて、微かな戦慄の漣(さざなみ)が彼女のからだを走った。 「彼らがかわいそうだとは思いませんの?」 「かわいそう?全然!」とハリコフは遠くを見るような目をして言った。そして一言一言噛みしめるように、「奥の深い喜びをおぼえるんだ。ちょうど、ヴァルヴァラ、君を抱いているときに感じるような精妙な喜びだ」 「そんなにニヒリストが憎いんですの?」 「そういうことじゃない。私のような地位にいると色々な役得というものがあるんだよ」彼のグレーの眼が虎の眼のように冷酷なきらを放った。「やつらが私の目の前でぶるぶるからだを顫(ふる)わせたり、やつらの蒼白の頬が恐怖のあまりに火照るさまなどを目の当たりにするのはこの上なく楽しいことなのだ。ヴァルヴァラにわかるかな?」 「わかりますとも!」そう言った彼女の眼はキラキラきらめいていた。「わたしにも同じ楽しみを味わえることができそうですわ。そういう場面にわたしも同席させてくださいな」 「いいとも。誰にも見咎められずに、たっぷり楽しめるように手配をしておいてあげよう」 「約束してくださる?」 「約束する」 「じゃあ、さっそく今日でもいい?」 「いいや、明日にしよう。君が知っているというプルトフスキーの尋問の様子が見られるように手を打っておこう。君もその方が面白いし、あるいは君の嗜好にもぴったりなのじゃないかな」 三日目の日がやってきた。夜中までに死刑を執行しなければならない。それができなければヴァルヴァラは破滅だ。このことは彼女自身よく承知していた。黄昏時に、ハリコフが馬車で彼女を迎えに来た。彼女は金(きん)の刺繍を施したバシュリク(被り物)で顔を隠し、黒貂(くろてん)の見事なコートを身にまとっていた。道すがら、ハリコフは次のような思案を反芻していた。手ずからあの男を拷問してやろうか、それとも、暖かそうな厚い毛皮に身をくるんでいながら丸で寒いように隣でからだを震わせているかぐわしい愛人の表情が、男の苦悶の姿を前に歪むさまを観察した方が面白いか。 彼は最初の案を採った。先ずヴァルヴァラを真っ暗な塗籠(ぬりごめ)のなかへ案内した。壁に作り付けた(衣装戸棚のように)大きい食器棚のなかへ誰に見咎められることなく忍び入って、ふたつの小さな穴から、隣の取調室の様子を隈なく覗くことができるようになっていた。それからハリコフは当の取調室へ入っていった。厚い毛皮を着込んだ彼は、シベリアの奥地のように寒いその部屋に入ってほっとした気分を味わった。テーブルの上には十字架が、二本の蝋燭(ろうそく)の間に立ててあった。彼はシーメン・プルトフスキーを連れてくるように命じた。 土気色の、やせ細った、傷だらけの恋しい男が、薄っぺらい服を着せられ、寒さに震えながら、鎖を引きずって蹌踉(そうろう)と入ってきたとき、ヴァルヴァラは顔面蒼白になり、涙をあふれ出させた。 「機嫌はどうだ、シーメン・プルトフスキー?」 反逆者は肩をすくめた。 「心を入れ替えたか?考えなおしてみたか?白状する気になったか?」 「白状するようなことは何もない」 「俺を怒らせるんじゃない!」 「そんな積もりは毛頭ない」とプルトフスキーはため息混じりに答えた。「何も知らないんだ、だから・・・」 「くそたれ!さっさと吐いてしまえ!聞いてんのか?」ハリコフは椅子を蹴って立ち上がると、プルトフスキーの髪の毛を引っつかんで床に投げ飛ばし、足蹴(あしげ)をくらわした。「さあ、吐くんだ!今すぐ白状してしまえ!」 「できやしない。だって俺はなにもしていなんだ!」痛々しくうめくように言った。 「何もやっていないだと!」ハリコフは卑しい笑い声を響かせた。「ヌート(鋭利な鉄片を仕込んだ拷問用のムチ)を見舞ってやれ!」 数人の下っ端警官が、壁に取り付けた鉄の輪に彼を縛り付けると、うちのひとりがヌートを打ち下ろしはじめた。 その拷問を見つめるハリコフの端正な顔に、魔的な歓喜(かんぎ)の表情が浮かんでいた。 警察署長がヴァルヴァラを伴って彼女のマンションに帰ったのは夜も更けてからだった。建物の外に一台の馬車が止まっていて、見かけないふたりの男が甃(いし)の舗道を往きつ戻りつしていた。 玄関を入るとヴァルヴァラは、ちょっと待つようにハリコフに言い残し、寝室へ入っていって重い毛皮のコートを脱ぎ捨てると、テンの毛皮の縁取りのついた赤いゆったりしたジャケットにすばやく着替えた。ちょっとした挙動(こなし)も外からわかる装いだ。そして警察署長を呼び入れた。 彼が入ってきたとき、ヴァルヴァラは腕を組んで部屋の中央に突っ立っていた。 「さっきあなたが拷問した男がだれだかご存知?」と彼女は冷ややかな口調で言った。 「シーメン・プルトフスキー」 「わたしの恋人だったの」 「おお、それを知ってたら!」 「知ってたら何?」 「もっと楽しめたはずだ」 「セラフ・パヴロヴィッチ、わたしを侮辱すると赦さないわ!あなたはもう二度とひとを拷問することはできないのよ!」 「え?できない?それはまたどうして?」 「これを読んで」 彼女は死刑執行令状を手渡した。男がそれに目を通し終えるか終えないうちに、彼女は短剣を彼の胸深く埋(うず)め込んだ。彼は音もなく彼女の足元へ頽(くず)れ落ちた。しかし次の瞬間、助けを求めて立ち上がろうとした。彼の口からはしかし、叫び声は出ず、一条の血が流れ出しただけだった。 ヴァルヴァラは再び短剣を振りかざした。 「助けてくれ!」ハリコフが細い声で言った。 「シーメン・プルトフスキーもあなたにそう言わなかった?」冷え々々とした嘲笑的 な口調だった。二度目の一突きで彼は絶命した。 ヴァルヴァラが短剣の血糊を死体の服で冷然と拭っていると、帽子をかぶり、手にピストルを持った、趣味のいい服装の男が部屋に入ってきた。 「うまくいったか?」 「ええ」 「死んでるのか?」 「ご自分の目で確かめたら」 「よし。一緒に来るんだ。早く!」 男はヴァルヴァラに腕を差し出した。そして短剣と拳銃とで武装したほかの男たちが入り口と階段を見張るなか、ヴァルヴァラは男に連れられて外へ出、待っていた四頭立て馬車のなかへ慌しく乗り込むと、素早くドアが閉まった。御者が馬に鞭をくらわした。 程なくして、マンションの上階が人騒がしくなった。駆けつけた警官たちによってハリコフの暗殺死体が発見された。 プルトフスキーは獄死した。ヴァルヴァラは依然としてロシア警察によって指名手配されている。彼女の行方は杳(よう)としてわからない。 訳者のひとりごと:結語がいい。胸が暗くロマンチックにときめく。雪片舞い散る北欧の街角、かすんで見える街燈、襟を立てて首をすくめて行く無言の人影、しずんでいくような・・・。「ライオン使いの淑女」の結末も同じ。これって失踪願望?あるいは逃避願望? |